(マスター)
彼の側に降り立って呟いた。反応は無い。ただそこにその身を横たえているだけだ。
地に寝そべっているのかも知れないし、宙に浮いているのかも知れない。
地が無く、上も下も、左右も、何も存在しないこの漆黒の空間ではそれすら分からないのだ。
ただ願うのは彼が苦しみを感じていなければ良い、という事なのだけれど、彼の反応は相変わらず無いし、私の大好きな美しい紫の瞳は今は瞼に覆い隠されていて見えない。
今、私は彼を理解できない。それが切ない。
(マスター)
もう一度呟いた。彼が私を見てくれるまで何度だって声を掛けるつもりだ。
私と彼にどれだけ時間が残されているか知らないけど、許される限りは側に居るのだと誓ったのだ。
彼は少しの間を置いてから小さく身じろぎして、今度は反応を返した。
それはそれは不機嫌な声だったけれど、とにかく今は言葉を交わせることが嬉しい。
「俺はもうお前のマスターじゃねえ」
(・・・マリク様)
「もうマリク様でもねえ」
私は何も言えなかった。返された声があまりに寂しげで、彼を傷付けた気がした。
いいや、恐らく本当に傷つけてしまったのだろう。
彼は答えてから暫くの後、ゆっくりと上体を起こした。緩く頭を振って、いや、と小さく呟き、そうして続けた。
私はただ静かにその心地よくも寂しい声音に耳を傾ける。
「俺は最初からマリクじゃなかった。主人格を閉じ込めていたあの時だって、結局俺は一瞬たりともマリクにはなれなかった。俺はマリクの影でしかなかった」
酷く淡々とした口調だったけれど、私にはそこから溢れ出る感情が分かっていた。
本物のマリク様になれなかった事が、どれだけ悔しかったか。どれだけ辛かったか。
彼が何に飢えていたか。何を切望していたか。どんな思いでいたか。
私には全てが分かる。だからこそ救い出したかったのに。この闇から。その孤独から。
けれど結局私が出来たことは彼を照らし出すことでは無く、マリクを照らし、彼という影の存在を浮き彫りにしただけだったのだろう。
(マスター)
「だから俺はもうお前のマスターじゃない・・・!」
彼はそう怒鳴ると、マントを翻して勢い良く立ち上がった。
世界で一番綺麗な二つの宝石が私を睨み付ける。
そうして酷く忌々しそうに舌打ちをするとその口元を笑みの形に歪めた。
「良かったじゃねぇか。やっとファラオの元に帰れて。お前はファラオの忠実なしもべだもんなァ?」
(私のマスターはマスターだけです)
「っ、黙れ!」
(マスター)
「黙れ!!!」
彼は金切り声を上げる。そうだ。彼はいつもこうやって叫んでいた。
全てを破壊し尽くすと言ったあの笑顔の下で、いつだって彼は叫んでいた。泣いていた。
それなのにどうして私は何もしてあげられなかったの。どうして誰も気づいてあげられなかったの。
どうして今彼は孤独のまま消え逝こうとしているの。
(マスター、私のマスター)
「・・・・っ」
(愛しています)
「、っ・・・う・・・・・」
彼は苦しそうに顔を歪めて、その場に膝をついた。
涙が紫を縁取り、頬を伝う。私にはその涙を拭ってあげることは出来ない。
太陽神などと呼ばれ、崇めたてられ、けれど私は彼に何もしてあげられない。
愛しい愛しいこの子供一人すら光の下に導いてやることが出来ない。救うことが出来ない。
誰か、誰か。この子を救って。これ以上孤独を与えないで。闇を、与えないで。
(!・・・マス、ター)
呼んだ声は震えていた。私の声に、彼は両手を胸の前で広げて見詰める。薄っすらと消えていた。
彼の体が闇に溶け始めたのだ。闇はゆっくりと、しかし確実に彼の身体を蝕んでいく。
止める術は無い。彼は瞼を伏せると腕を降ろし、穏やかに微笑った。
私は無礼を承知で彼に近づき、羽根を広げて、なるだけ優しく彼を包み込んだ。
私の放つ光が彼を闇から救えば、と思った。彼を奪おうとする闇から彼を守れれば、と。
けれども、祈りというのはいつだって無情だ。決して叶うことが無い。
彼を侵食する闇はその速度を少しも衰えさせることは無く、卑しくも彼を飲み込んでいく。
(・・・っ!)
彼を救えない苛立ちに体中が熱くなる。その時、私に触れるものがあった。
とても冷たいのに何故か暖かいと感じるそれは、彼の掌だった。
彼は、驚いて彼を見詰める私を一度見上げたが、何も言わずまた顔を戻した。
そうして私の羽根にそっと頬を寄せた。
その仕草に私の胸がどれだけ締め付けられたか。
こんなにも愛しく切ない気持ちはきっと誰にも理解出来ないのだろう。
彼はその姿勢のまま、消え入りそうな声で呟いた。
「本当に、俺をマスターだと思っているのか」
(はい)
「・・・マリクだと、思っているのか」
(はい)
「・・・・・そうか」
(はい)
彼はそれを最後に何も喋らなくなった。瞳はまた閉ざされていた。
眠っているのかも知れないし、疲れたのかも知れない。
それともただもう何も話したくないのかも知れない。元々口数の多い方では無かったから。
私は彼の気持ちを全て分かっていたのに、結局彼について何も理解できなかった。最後まで。
・・・最後。心の中で呟いた。最後、終わり、終焉。それが与えるものが、この心を刺す痛みなのか。
あぁ、ファラオ。私は罪深き神です。貴方に従う身でありながら、こうして、貴方の命を脅かした彼に寄り添っている。
彼を捨てることが出来ないでいる。世界中の誰よりも彼を愛してしまっている。
けれどファラオ。私は決して貴方に刃を向けたりはしません。
だからどうかお願いです。彼が消えてしまうその時まで、私と彼を引き離さないで下さい。
終わりが来てしまうというのなら、それを避けることが出来ないというのなら、私はその最後まで彼だけの神でありたいのです。
この心を刺す痛みも全身を切り裂く悲しみも、私が彼を愛するが為のものならば、それを抱いて彼の最後を見届けたいのです。
ただ静かに在るだけだった闇がぐにゃりと不気味に蠢いた。無遠慮に彼に絡みついてゆく。
それは終わりの時が近いことを告げる悪魔の宣告だ。
闇に消え去っても彼がぬくもりを忘れぬように、もう二度と寂しい思いをしないようにと願いながら、私は彼をきつく抱きしめた。
闇、闇、深い闇、何処までも続く終わり無き闇。
私の愛した彼は、ただ静かにその闇に飲まれていく。
私はそれを止めることが出来ない。
ただ、彼の悲しみに寄り添うだけ。
( 竜胆、その花言葉は 『貴方の悲しみに寄り添う』 )